「暑さ寒さも彼岸まで」という、その彼岸の上映日が間近かとなった。
6月の初め頃から準備し始めた「祝の島を観る会・下関」。
並みでない過酷な夏を「ほうり」「ほうり」と訴えて過ごしてきた。
私にとってはこれが二度目の(もうこれ以後はない)大仕事である。
というのは、一度目は「アレクセイと泉」の上映だった。
「アレクセイと泉」は、チェルノブイリ原発事故の被災地・ベラルーシの或る村に、
55人のお年寄りと青年アレクセイが、
たった一つの、放射能が検出されない泉の水を頼りに暮らしており、
その姿を、本橋成一監督が、かれらに寄り添って丹念に写し、制作したという。
その映画が大分県の中津市で行われるときいて、
「行こう、行こう」となった。・・・そして帰りの車の中では、
もう同行の4人が文句なしに即決「下関でやろうや」。
実行委員会を10月4日に立ちあげ、上映日を翌2003年1月19日と決めた。
600人のお客さんに観てもらったその時の上映会は、
小さな会の私たちとしてはまさに快挙で、いつまでも記憶に残っている。
実はこの映画を私は、当時すでに20年に余る原発反対を続けていた
祝島の方たちに観てもらいたいと、山戸貞夫さんに話をつないでいたのだった。
下関上映会の翌日、祝島上映会は実現し、本橋監督と纐纈あやさんは、
下関ともそうだが、祝島とのお付き合いも、そのときから始まったのだと思う。
この度のはなしは、08年3月24日、私も同行して纐纈さんが祝島に渡り、
映画作りをさせてほしいとの意向を伝えることから始まった。
島の人たちから快く受け入れてもらい、その後、断続的に島を訪れ、
8月の「神舞」から正式クランクインとなった。
私の役目は、最初の引き合わせだけと思っているので、
あとは下関にいて、うまくいけばいいがと案じながらの日々だった。
しかし現場は大丈夫だった。撮影者も大久保千津奈さんという強力な同志を得、
製作デスクの中植きさらさんも加わって、若き女性3人組の熱意と能力と、
島の人たちとの信頼の合作は見事に花咲いた。
映画は作るに一苦労、作れば普及に一苦労。
まあ、いい作品を作ってくれたので、
普及の山に一鍬でも入れねばと、この夏を頑張ったのだった。
しかし、なにしろ「アレクセイ」のときから仲間と共に7つ半も年をとってしまった。
どんな成績になるか、11日が第4回実行委員会だったのだが、
まあ、あんまり恥ずかしいことにはならないなという見通しはついた。
ところで、人の笑顔が美しいということはよく言われるが、
私は、人が公のために腹から怒った時の顔こそ美しいと思う。
一つの例だけいうと、この映画の中の田名埠頭の船上からの抗議活動、
美容師の典子さんの美しいこと。
中国電力の職員に対し、「おまえらは命をかけて闘ったことがあるか!」と、
マイクをにぎる場面。唇が小刻みに震えている。
ラッシュで見て、本編に入れてほしいと願っていた場面なので、入っていて嬉しかった。
人は何に突き動かされて走るのだろうか。
私はなぜ、金銭的もうけもありはしないのに、
「ほうり」「ほうり」と一生懸命になるのだろうか。この暑い中で。
・・・当然のこととしていつも活動してきたのに、
ふいに、そんな根源的な事が思われてきた。
この映画はそんなことを思わせる何かを持っている。
結局、その答えは私なりにいうと、
邪悪なものへの怒りと、その対極にある、美しいものへの希求だろう。
この映画には、島の人たちの営みと心、自然の美しさが満ちている。
そして、この映画を作るために協力をした人たちの気持ち、
普及の労を惜しまない人たちの気持ち、
すべての行為に美しさを思わずにはいられない。
沢村和世(「原発いらん!下関の会」代表)
和 (日曜日, 17 8月 2014 20:50)
たびたび失礼します。
昨年度、福島県二本松市で行われた
チェルノブイリ視察団の報告の様子です。
福島県の友人にも、祝島に遊びに行ってほしいなぁ。